村上春樹、河合隼雄に会いにいくを読んで 

僕は村上春樹が書く小説が好きだ。

初めて手に取ったのは、確か高校生の時だったと思う。その時は、面白いとは思えず、もっと言うと読解することすらできなかった。ただ「自分がもっと成熟していく中で村上春樹の小説を面白いと感じる時が来る」という感覚ははっきり掴んだ。そのため、古本屋に行き出ていた村上春樹の小説を全て買い、2、3年周期に一度、読み直すようにしている。今では、少なくとも“面白い”と感じられるようにはなってきた。

村上春樹の小説を読むと、掃除や料理をしたくなったり美味しい珈琲飲みたくなる。また、泳ぎに行きたくなったり(実際に村上春樹の小説の影響で、水泳は僕の趣味となった)恋人や友人を大切にしよう、と思える。

僕に取って村上春樹の小説を読むことは、ダイレクトに実生活に影響を及ぼすことであるし、また、水面下でも僕の生活に影響を与えていることでもあると思う。

 

本著は、ねじまき鳥クロニクルが書かれた後に(1995年)、村上春樹と臨床心理学者の河合隼雄が日本で話しをした時の会話がベースとなっているものである。対話の中で、「物語について」「他者との共生について」「身体制について」「過去(個人というよりもも、人類が抱えているスケール感のもの)」について話しをしている。

僕は尊敬する小説家である村上春樹が、物語をどのように考えているかについて、強い関心を抱いていたため、本書を大変面白く読ませてもらうことができた。

村上春樹は、自身の著書と自分の関係性について、以下のように話している。

 

ただ、ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』に関して感ずるのは、何がどういう意味を持っているのかということが、自分でもまったくわからないということなのです。これまで書いてきたどの小説にもまして、わからない。

(中略)

たとえば、どうしてこういう行動が出てくるのか、それがどういう意味を持っているのかということが、書いている本人にもわからない。

(「村上春樹河合隼雄に会いにいく p132から引用」)

 

村上春樹の小説を読んでいて感じるのは、「この先何が起こるか分からない」といった感覚である。それは、内容が突飛であるといったことではなく、物語が作者のコントロール下から離れたところにいるような、登場人物達が独立した一個体として意思を持ち、動いているな感覚である。

本著は、村上春樹の小説が好きな人はもちろん、小説を読むことが好きな人にとっても、物語や物語を書いている時の作者の身体や内面について、その一端に触れることができるため、強くおすすめしたい。

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)